昭和48年01月20日 朝の御理解
御理解 第83節
「一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、みてることはないが、一時に伸したのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ。」
お互いの心の中に、信心は少しばかりで、おかげは大きく早く頂きたい、と言う様な心がある事を戒めておられるのだと思うですね。もう本当にねアッと言う様なおかげは、アッと言う様にしてしまえるんです。先日から麻生さんのお導きで、昨年の暮れだったでしょうか。お参りになった方があります。私は思うんです。これはいつの場合でも、思うんですけれども。本当に実意を以ってお導きをして、人の難儀を見ておられる。それでお導きをなさって、お取り次ぎを願われる。
もう本当におかげだけはよく頂くですね。もう本当におかげを頂くです。例えば本人はおかげと思うとるけれども。それはやっぱおかげと思うですけれどもその思いようがね違う訳です。所が今日ここに有りますように一文、二文と言うですか。もう次第次第におかげを頂いて行くというおかげはですね.有難さおかげという実感と言うものは、全然違うんです。例えば病気なら病気をしておるとを、何年がかりいやもう何年掛かりでも、ようおかげを頂かずに、もう病気はこのままで良い。
もう信心が分かって行く喜びを感じ乍ら、信心が有り難うなって来ると言う例もありますよね。だから病気は治らんでも良いから、ご用だけ出来ればよいご用だけはさせて下さいと。三代金光様の奥様なんかはお若い時から、お亡くなりになるまでやっぱり、胸の病気でおありになった。随分やっぱお酷かったらしいです。けれどもやっぱり毎日毎日が、しら真剣。今日はどうぞ三代金光様のお側での御用がで。
、御用だけは十分にさせて下さい。まあだお子様が次から次とお出来になる頃は、お子様をおんぶされながら御神米折りをなさっておったと言う。起きる時にはそれは大変きつい、けれどもそこは神様にお願いをさせて頂いて起こして頂くと、一日御用に使こうて頂きますとお話になった事を、聞きましたがね。けれどもこれはその神の権威に掛けてとでも申しましょうか。そういう例は幾らもありますが、麻生さんの今頃のお導きの方もそうでした。これはまぁいうなら難病です。婦人病で。
それからお参りして見えましたから。私がお願いすると、必ず変わった事がありますからね、その変わった事が有ったら、おかげと思うて信心をしっかりなさらなければと言う様な意味の事を申しておりました。ここへお参りをしてあくる日、もうそれこそ大出血をされた。それでこれが変わった事と思うて、思うとりましたらその明くる日から、もう永年の病気がそれっきりで、おかげを頂いちゃるとです。お取り払いを頂いたんでしょうねやっぱり。もうそれは血の固まりが出たそうです。
本当にもう有難い有難い、福岡の方から合楽の金光様と言うて、ずうっと拝みよるという風に有難い。お礼にゃ出て来ん。金光様の新かなのには恐れ行ってしまいましたと。それから正月には大きな骨が、喉にかかったそれですぐ掛かりつけのお医者さんに行かれた所が、お医者さんが留守じゃった。と言うて別な医者に行こうごともないから、どうしようかと思うておる時に、その時に頂いて帰っておった御神米を思い出して、麻生さんがこげな風にして、頂かんならんと言うてあったから御神米を頂いた。
それっきりストっと入った。よっぽど傷が大きかったじゃろう二、三日は痛みましたけれどもおかげで、掛ってる骨がすとっと御神米と一緒に下へ下がったとこう言う。あんまり有難いから有難う御座います有難う御座いますと、言いよったら御主人が「お前はこげなおかげを頂いてから、お礼参りどんせじゃこて」と言われて又麻生さんの車に乗せて貰うてお礼に出てきた。勿論その時には又色んなお願いもあってからでした。
ですからこれはまぁ分からんのですから、仕方がないですけれども。そういうおかげではね大した事ないですよ。信心そのものが私の心をいつも救っておって下さると言うおかげでなからなけりゃ。だから皆さんが願っておるおかげなんかでもです。もうそれは神様が、本当の分限者の徳とでも申しましょうか。一年で分限者になったのはアッという間に消えるけれども。それこそ一文、二文です。年数を掛けて信心が分からせて貰うて、おかげを頂くと言う。
これは人よりも一年遅れて分限者 になる気になれと言う事は。神様がおかげを下さろうと言うても、神様ちょっと暫くお待ち下さい。こちらの受け物が出来とりませんと、言う位な気持ちが、信心には必要だけれどもお互いの心は、おかげの方にはやる訳です。はぁもう早う一時でも楽になりたい、一時でも楽になりたいという様な、そういう心を私は戒めておられる事だと思うんです。
私は今日この事のご理解が、この八十三節にどういう風に頂いたら良いだろうかと、思うのですけれども。あちらが立てばこちらが立たず。親に孝行しようと思うたら、君に忠にならず。君に忠たらんとすれば親に孝ならず。これは平重盛が嘆いた言葉ですね。親の通りにすれば、天皇陛下に対する不忠になる。と言うて天皇陛下の方へ忠を立てようとすると親に不幸になる。もう進退極まって私は、どうしたら良いかと言うようなね。そういう様な事のない様な信心をしなければならない。
信心の徳と言うのはね、あちらも立てばこちらも立ち、勿論自分自身も立つという程しのおかげ。それじゃあんまり良すぎると言うて、金光様の御信心はね、そういうおかげの頂ける道なんです。次に行基菩薩の詠に「ほろほろと、鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思い、母かとぞ思う。」と言う詠がございますよね。ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば、まぁ私は意味はよくは分かりませんけれども仏教の方ですから。
いわゆる因縁説と言うものを信じておればです。山を通っておるほろほろと、淋しい声で鳥が鳴いておる。あれはひょっとしたら自分の父か、母かのです生まれ代わりでは、なかろうか。自分がこの道を通っておるのを見て、呼びかけておるのではなかろうか。と言う様な意味ではなかろうかと思うのです。ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思い、母かとも思う。皆さん例えば今日の御理解に、只今二つ頂きました。
平重盛の嘆きの事と、それから山鳥の声聞けば、父かと思い母かと思うと言う、その詠をここに当てはめたら、どういう答えが出て来るであろうか。本気で私共が五つの願いと言う願いを、もうそれこそ神前に拍手して向こうた限りは、それはもう必ずこれだけは願わなければならんぞ、唱えなければならんぞと言っております。皆さんが五つの願いをなさる。繰り返し繰り返し日に何回唱え、願うやら分からん程しに願う。そして願って行くうちに色んな事が分からして頂く。
はぁこれは願っておる。三つの願いの一二三の所だけは、真剣に願えるけれども後の二つの事が願えないとか。純真な子供達の場合は、それとは反対で後の二つは、真剣に願えるけれども、先の言うならば健康でありたいとか、子孫繁盛家繁盛でありたいとか、家庭が円満でありたいとかと言う様な願いは返って、願う気分が起こらないと言う様な、純粋な心で居りますと、そう言う様に色々が分かってくる。
それでもねそれでもやはり、願わなければならない。ですからこれは大人の信心ですね。言うなら三つの願いは真剣に出来たけれども、後の二つの願いが出来ん。願いよるけれどもやはりこれには不純な物があると分からせて頂いたら、そこから詫びて行けと頂いた。自分の心に不浄がある時には、まず先に断わりおいて願いある事を頼めと。やっぱ頼まにゃいかん。その事を一生懸命神様にその不純である所、不浄であるところはお詫びをしてからでも、やっぱり願わなければならない。
言うならばそういう様に段々信心の、願い祈りの筋と言うか、いわゆる公儀名分が立つ祈りが出来る。神様もそういう風な祈り方、願い方をするなら一つおかげをやらじゃこてという風に、向きをこちらに向けて下さる。所がですそこで今度は又、気づかせて頂く事は下さっても、今の私には力がないと言う事。そこで力を頂かなければならない。昨日は、その辺の所を頂いた感じでしたね。
その受け物を作ることの為の、昨日はポイントになる所を聞かせて頂いたが、結局は今まで私共が、過去に於いてさせて頂いた、成り行きを大事にさせて貰う。御事柄を大切にさせて貰う。黙って納めると言った様な信心がね、力を受ける事だと。昨日はそこん所を、大海の様な信心という風に頂きました。自分が愈々豊かに大きくなる事以外にはないと言う。だからそれをです例えば、頂くと言う事は見易い様で見易い事ではない事。
昨日私はある人の事をお願いさせて貰いよりましたらね。大きないろりが切ってある所に、鮎がねこう生々しい鮎が串にさしてある、こうやって刺してある。所謂鮎を焼いてある訳なんです。そういう所を頂いた。だから鮎はこの辺りで、あいあいとこう申しますが、神愛の愛という風に頂かなければならんだろうと思う。所謂逆鮎です逆さまに、こう刺してあるでしょうが。だがら逆さまになっとる。
だから愛の反対ち言う事です。私共は神様からおかげを頂く時だけが、愛のごと思うとるけれども、そうではない。撫でさすりされるだけが、愛ではない。叩かれる時も愛だと言う事なんです。だから撫でさすりされるだけの愛でですね、甘んじてしまう信心では、つまらんでしょう。それこそ麻生さんのお導きの例を取りましたようにね。それこそアツと言う間におかげを頂いてしもうた。もうお礼参りをすりゃそれでお終いになると言ったようなね、信心ではつまらんでしょうが実際は。
願うても願うても右と願っても左、左と願っても右。ある場合には泣き面に蜂という様な所もあるけれども。その頃は段々信心の有難さが分からせて頂いて、それを親愛として頂けれる。成程それじゃとても、一年二年で頂ける筈はないという事が分かりますね。それが段々と、言うなら十年も続いてそれこそ、わが心を祭れとも仰る。その祭れる程しのおかげを頂いてお徳を受けて、おかげを受けた時にはです。いわゆる分限者の徳と言うのが備わって来るのです。どんなに頂いても頂いても、いや頂けば頂くほど信心の方は、熱心になって来なければおられなくなって来るのです。そういう信心を頂いておってくれよという事なんです。私ここで思うのは。
少しばっかりおかげ頂いたら、もうそれに腰掛けて、朝参りも出来んと言った様な信心じゃでけん。本当におかげを頂けば頂くほど、有難い勿体無いがです。お礼参拝でもさせて貰わなければ、おられないという信心を身に付ける処までが、一年遅れて分限者になる気になれという事だと思う。ただ一年間遅れてから分限者になると言うだけの事じゃない。その遅れておる間に。
当の信心を頂いてくれよという事だと思うのです。それには愈々です信心の深さ、親神様の思いの深さと言うか。ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞ思い母かとぞ思う。それこそちょっとした風のそよぎにでもです。神様のお心が、これに響いて来る程しの信心を頂けよと言う事だと思う。そういう信心にならせて頂いたらです。誰が立って誰が立たないと言う様な事は絶対にない。
忠義にもなりゃ親孝行にもなる自分自身も助かられる。私は金光様のご信心お徳を受けるおかげと言うのは、そうほうが円満になって行くおかげが頂けれるということだとこう思う。私はその事を二つ頂いてからね、今日はそういうふうに、この八十三節を聞いて頂いた訳です。いよいよ信心の、何とも言えん信心の深さと言うかに触れて行くところの信心。しかもです。
昨日は、ある大変な分限者のお婆さんが参って見えました。養老院に行くち言うお届けじゃった。養老院に行きたいち。どうしてですか。嫁後と息子とがあんまりろくそにするから。もうそれこそ大変な分限者金満家ですよ。もう本当に信心のいわゆる段々段々、それこそ、昨日のご理解じゃないけれども、信心をしておれば段々有難い事が増えて来ると言うおかげを頂かなければいけない事が分かりますですね。
どうぞ。